田舎には何もないという学問のレンズを欠いた人たち

 田舎には何もない。そのような言葉をメディアや、田舎に住む同級生などから聞いた。しかし、田舎には何もないわけがないのである。
 ある人にとっては宝の山で、なぜ大多数が何もないと感じるのだろうか。
 おそらくそれは「学問のレンズ」が欠けているのである。

1. 田舎と学問の相性

 心理学や行動経済学など、「人」を対象とする学問にとって、サンプルの多い都会は格好の実験場だ。


 しかし、経営や生物学などからすれば田舎は煌びやかなものが多い。なぜなら、生物を探究・研究したい人にとって、アスファルトのみすぼらしい草花がぽつんと咲いている都会よりも、動植物が生き生きとうごめいている田舎の方が良い。


 また、経営者からしても田舎は良い。自然の材料を加工して、都会の人に売る。実は、身の回りにある衣食住の大半が、元は自然と自然のある田舎で生まれたものである。


 加工品しか見れない愚者にとって、それは都会で創造されたような錯覚をする。しかし、ほとんどの産業の基盤は、田舎で誰を見ようとしない資源に付加価値を付け、加工などして過程が見れない人に大きな金を払わせる。


 このように、例を二つ挙げたが、多くの学問のレンズを持っている人にとって、田舎が何もないという人と感性や知性が合わないのは当然だ。

2. 学問のレンズがない人々へのビジネス

 逆に、これらの「学問のレンズ」がない人は、田舎に何もないと言うに違いない。例え、高等な芸術品が目の前に並べられていようと、それを見る教養や目が欠けていれば、それは目の前にあろうと「無」なのである。


 このような人に商品を売るのが経営者であり、以前から僕は、人が都会へ一極集中するメリットについて考えた。


 まず、人を一点に凝縮することで人の自己家畜化が進む。都会を言い換えれば、人自身が作り出した「人農場」のようなものだ。 


 また、都会に人が集まることで、田舎で財を成す力がある人は、都会に住む人々に向けて商品を売れる。


 田舎に住む人が少なくなるほど、そこにいる競合が減り、その土地の相対価値は高まる(人口減少も、同じ人間でもプラスに作用する階級もあるという驚きの事実)。


 そこで「学問のレンズ」を持つ人からすれば、田舎にも何もないと、都会へとまっしぐらにメディアの洗脳で詰め込まれ、元は田舎にあったものを消費するのみの人間は、格好の「客」なのである。


 経営者は社会を豊かにする人でもあり、消費者もいなくてはならない。
 都会への人口の集中で利益を得られるのは、案外、都会にいる人たちよりも、その枠を俯瞰して見られる、 田舎の「学問のレンズ」を持った人なのかもしれない。

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