親のレールに乗った弱い自分 学校と勤め人は同じ

 なんだこりゃ。

 社会人を経験し、恐ろしいことに気づく。なんと、学校教育の不満というものが、同じ形で湯水の如く溢れてくるではないか!

 嫌いなシステム、先輩、大人など、多くの類似点が見つかり、そのレールを敷いた大人というより、反発しながらも、「結局は」レールを歩いた自分に嫌気がさす。

1. 集団行動のデメリット 偏差の極端な人が損する

 集団行動をするメリットはあるが、何かしら能力が飛びぬけており、または苦手なことがあり、それらの平均値から偏差が大きく外れている子どもがいるとする。

 集団行動においては、それらの子は「苦痛」でしかない。今回は「処理速度(学校で求められる課題に対して、注意・努力・記憶などが適応できるかどうか、別にこれがあるからといって優劣はない)」をあげる。

 これらの力が高ければ、周りの子よりも課題の出来がいいのだから、終わっても周りのペースに合わせなればならない。授業が終わる時間も、苦痛な学校を卒業する期間も変わらない。

 このようなシステムでは、動機が落ちる。

 社会人でも同様に、何時から何時までという決められた雇用契約があり、その日にこなす仕事をこなしたところで、終わる時間がこなければ「これやっておいて」と、自分ではない誰かがやるはずの仕事が降りかかってくる。

 そして、同じ時間内で多くの作業をこなそうが、こなさなかった人と「給料は同じ」という矛盾がある。このように、学校で感じていた違和感を社会人でも感じる。

 

2. 「しょうもない」上の存在

 学校でも、ただ学んだことを経済的な要因に還元できず、再び同じ場に戻ってきただけの大人を見てきた。

 そうでない人もいたが、しょうもない人間に限って、「社会」を語る。しかし、社会なんて多様で、そいつらが見てきた社会とは、世間のレールの上を歩いて再び学校に舞い戻るという、学んだことを違う形に還元できずに同じ形でしかアウトプットできない人間が語る。

 そんな人間の語る社会など、「狭窄な」社会でしかない。

 そのような人間が、学校で反抗している生徒に社会を学ばせ、正すという姿勢には正直、不快であった(僕がそうされた人間)。

 しかし、これと同じ人間が社会人にもいる。

 何年前かわからない、化石みたいな価値観で、自分より下の世代に能弁を垂らす。しかし、それを聞いていても、化石みたいに身体も頭も凝り固まりながらも、労働力を売らなければならない姿に涙が出そうになる。

 身体の節々を痛めながらも、「ストレスフリー!」なんて自分に嘘をつき続け、「年の高さ」や「入社年度」でしかマウントすることができない、内的能力の欠如した人間なのだ。

 このようなしょうもない人間がいることは、見ていて目が痛い。

3. 自分も悪い

 このように、雇われと学校生活の類似点に、不満たらたらな僕であるが、「自分」も悪い。

 なぜなら、大人の言うことを聞いていれば、それを言っている大人のようになるのであり、雪の中でも出勤したり、疲れながらもその疲れを口に出さずに仮面をつけている大人たちの姿を見て、「こいつらの言う事を聞いてはいけないな」と、レールから飛び出ない自分が悪い。

 多分に、今も反抗し続けているが、結局、学校を卒業し大学も出て社会人になるという、偽お利口さんのルートから出ることに足がすくんでいたのは確かである。それは別に、自分が未成年だったからということは言い訳である。

 このように、「アドバイス」なるものを語る口が腐った大人がいるが、そのような人間の出まかせには耳を塞ぎ、「このような大人になりたい」と思う人間の口を信じて努力していこうと思う。

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