「Fラン」という不思議な言葉への向き合い方 メタ認知・心理学・外向性

Fラン。

正直、大学に入ったとき、この言葉を始めて聞いた。

そのような偏差値・学歴など、外の価値観に無頓着だった僕は、この言葉にぶちあたる。

どうやら、「偏差値が上位の大学に比べると低い大学」のことを指すらしく(今は使われているのかはわからない)、同じ学生でも大学のことを卑下する人もいた(僕はそのような人とはそのうち関わらなくなっていった)。

しかし、僕は受かった国立大学を蹴って、東京に行きたい気持ちと、学問を学びたい思いを携えて、誇らしく大学に入学した。

しかし、周りに大学のことを低く言う学生がいて、自分との価値観の違いに苦しんだ。

1. そのような学生はどこにでもいる

まあ、今思えば、それは「どこの大学にもいる人」である。

Fらんという、汚らしい言葉には後から触れるが、まず、日本の入試システムと言うのは、第一志望・第二というように何個も大学をうけられる。

そのため、第一を目指していても、第二である大学に入学せざるをえない人もおり、その第一に入れなかった不満を言い続ける人は、どの大学にもいるというのが現実だ。

2. 仮説 そのような人のメタ認知は低い

そのような人を分析すると、おそらく「メタ認知」というのが小さく、「外向的」な人だろうというのが僕の仮説だ。

メタ認知とは、「自分が何を認知しているか」についての認知のことであり、自分のことを客観的に見れる能力と言える。

その認知が小さい人では、自分の能力というものを現実的に見れていない。

よく、「やればできる」と言う人がいるが、その人に突出した才能がない限り、それは口だけのメタ認知の低い個体である。

そのような人は、「第一志望に自分は入れたはずだ」という誇大に膨らんだ理想と、現実の能力が一致しておらず、不平ばかりをいう。

3. 外向的で価値観を吸収しやすい

また、この国には、残酷にも学歴を重視する傾向があり、その価値観がはびこっている。

外向的とは、考えが外に向かうことで、このような価値観の影響を内向的な人よりも受けやすい。

そのような、メタ認知の小ささや、性格の傾向などが「Fラン」という言葉を使う学生に見られる特徴という仮説だ。

一方、この文章を読んでいるような「内向的」な人は、考えが内へと向かうから、自分自身の軸を持っている。

そのため、多少の外の価値観の影響を受けながらも、内向的な人は外よりも内を見る。

4. 社会学からFらんを分析

もっと言ってはいけないという本があり、その中でFらんについて述べられている。

この国では大卒と高卒の待遇は多少違う。

これは社会に出た人ならば、残酷な事実として経験されるものであり、偏見ではない。

この本では、大卒という恵まれた環境にいながらも、自分を卑下する言葉として「Fらん」を使っていると言われている。

例えば、自分を卑下することができるのは、自分が欲しいと思うものを、必要最小限に持っている人間だ。

食事にありつける日本人は、「うちの母さんの料理がまずい」なんて卑下することができるが、本当に食に飢えている国ではそのような言葉は生じない。

このように、Fランというのは、日本で認められる学歴のラインを運よく乗り越えられたけれど、メタ認知が低く外向的な人間の「わがまま」な言葉かもしれない。

参考になる社会学の本はこちら▼

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